落合今昔物語 ─聖なる地とキチィとナンリオ・ピェールランドの物語─

Note Book 水魚文 /
制作時期 2018 – 2023/

※この落合今昔物語はフィクションです。登場する人物・地名・会社・施設・団体・祭儀・名称等は架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。

失われた地

 今、私は草木に覆われた自然以外何もない土地を歩いている。私がもっと若かった頃、この落合と呼ばれた土地には大きな中央駅があった。駅前からのびる緩やかな坂道のパルテノン大通りをずっと歩いて行くと「パルテノン多摩」という公共施設があり、その建物にある急な階段を登った上には池のある広い公園があった。また近くには「ピェールランド」とよばれるナンリオ社が運営するテーマパークがあり毎日大勢の人がその中でその世界観を楽しんでいた。

 ピェールランドとよばれるテーマパークの終わりはゆっくりと訪れた。最初は一時的な休館をするものとしてその門を閉めた。しばらくの間、人々はその門が開くのをおとなしく待っていたが、待ちきれない人が徐々にその閉じた門の前に集まり列を作るようになった。年間パスポートを手にした人が、
「早く中に入れろ。」
と時々大声を出したり、人を押したりと時間とともに黒い雰囲気に変わっていった。 そのような状況が数年続き、最も長い人で6年間そこに並んでいた。中に入れない人々の列は諦めにも似た感情を生みつつ、今日こそピェールランドの門よ扉よ開けと期待をして並んでいた。

 ピェールランドの門が閉ざされている時、一度だけ私はなぜか中に入ることができた。建物の中に入り、いつも通りエスカレーターを下り広場に出ると、いつもと変わらない楽しそうなパレードがいつまでもいつまでも知恵の木の周りをグルグルと回っていた。その途中でなぜか屋内なのに強い雨か降ってきた。その雨に濡れた私はシラフになり、周りを見渡すとそこは「都有地」とある看板が立つだけの広大な空き地で、私の目の前にはキチィちゃんのシャツを着て裸足で「ええじゃないか」を踊り続ける眼がキマっていて狂った顔をした知らない女が2人いた。

 この落合と呼ばれた土地は、大昔は山に木が茂り畑は豊かな作物が実る山深い自然豊かな田舎だったという。それが戦争のあとにおきた高度成長期にニュータウン計画が持ち上がり近代的な住宅地に地形ごと作り変えられた。長い間人々は平和に暮らしていたが、それが今では再び草木に覆われ自然の豊かな、そして自然しかない土地に生まれ変わっていた。

 この落合の土地にあった建物はすでになく、大きな駅を通っていた鉄道もすでに廃線になっている。人の力でまっすぐに作り変えられた乞田川は自然の力でまたくねった流れに変わっている。登るのが大変だったパルテノン多摩の階段はただの土色をした崖になっていた。

 私は近いうちに死ぬのだと悟った。

かつてピェールランドが存在した場所は森になっている

「ええじゃないか」とは?

Re: Ei Ja Nai Ka !! ええじゃないか
https://www.youtube.com/watch?v=_3OnzNozNAA

ええじゃないか – Wikipedia
ええじゃないかは、日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。

ええじゃないか - Wikipedia
「ええじゃないか」騒動に興じる人々。
[河鍋暁斎1867年作 – 国立国会図書館デジタルコレクション]
wikipedia.org より

「パルテノン多摩」とは?

多摩市立複合文化施設[パルテノン多摩]



パルテノン多摩 – Wikipedia
パルテノン多摩(パルテノンたま)は、東京都多摩市にある多摩市立の文化施設の愛称である。正式名称は多摩市立複合文化施設。
多摩ニュータウン・多摩センターのシンボル的な施設で、1987年(昭和62年)10月31日にオープン。多摩市文化振興財団が運営する。多摩センター駅から続く歩行者専用道路「パルテノン大通り」の突き当たりに位置し、本格的な多目的ホール等があり著名な芸術家やミュージシャン、劇団などが招かれる。また、市民自身の発表の場としての利用も多い。愛称は公募により定めたもので、多摩ニュータウンにおける文化の殿堂となり、丘の上にある建物がギリシャのパルテノン神殿と似ているため選ばれた。
しかし施設老朽化により2018年12月より大ホールで長期大規模改修に着手。2020年4月より約2年間全面休館の予定。

パルテノン多摩公式サイト
「文化芸術を通して、みんなが喜び、つながり、まちの魅力を創造する」場所へ。
パルテノン多摩 - Wikipedia

ナンリオ社長とキチィの出会い

 時は1962年のことです。これは丘陵と畑が広がるような緑の深い田舎の落合村に流れる乞田川の河原で2人が出会ったことから始まる物語です。村の女の人が家のすぐそばに流れる、そこに住むものが皆「聖なる河」と呼ぶ乞田川の河原で、ただただぼーっと川の流れを眺めていました。その河原は蛇のようにくねりながらカーブを描いて流れる乞田川が崖にぶつかり流れを変えるところで、その崖の上に村の女の人は住んで畑仕事をして生きていました。

 その時に川下の方から大きな荷物を持った男の人が歩いてきました。その男の人は大切そうに荷物を持って歩いてきたのですが、その中に入っているのは遺骨でした。 近くに鉄道も大きな道路も無い、このような田舎に徒歩でわざわざこの地を訪れたのです。

 その村の女の人やその親戚たちは落合村の他の人たちとはあまり深く関わらず、割と孤立した生活を送っていました。それは彼女たち一族の顔が少し猫に似ていて、その見た目のために村の人たちからあまり良くない扱いを受けているのです。村の人たちは彼女たちのことを「ねっぱ」と意地悪な名前で呼んでおり、村八分とまではいかないのですが誰も積極的に関わろうとはしなかったのです。

 川下から歩いてきた男の人は、その村の女の人たちの属する一族のうちの一人の遺骨を持って現れたのです。聞くとその男の人はその遺骨の主とともに「五反田シルクセンター社」というのちに「ナンリオ社」と改名する布製品を販売しながら費用を貯めて、猫のような人たちをはじめ動物のような人たちが子供たちを楽しませるという娯楽を提供する会社を運営しようと共に仕事に打ち込んでいたのでした。しかしその遺骨の主があまりも体が弱く、途中で「ふと」亡くなってしまったのでした。そうこの者たち一族は皆体が弱く寿命が短かったのです。そして社長はその遺骨の主を故郷に帰すことにして、その地で安らかに眠ってもらおうと考えこの村を訪れたのでした。

 この村の女の人はその亡くなってしまった本人のことをかすかに憶えていたのでした。そう随分と昔に何か夢のようなものをもって村から出て行った、そんな印象の人でした。その人の人生を憐れみ女の人が普段農作業をしている丘の上にある畑の隅にある小さな岩の下その骨を埋め、墓とし弔うことにしました。その墓石となる岩は本当に小さく墓としては実に簡単なものでした。しかしそれが随分とあとに現ナンリオ社が大きくなった時、そこに墓を記念する大きな施設を作ることになるのですが、それはまた随分の先のお話です。その施設は墓石となった「岩」を意味する言葉「ピェール」を名前に入れた「ピェールランド」と名付けられます。

 遺骨の主は社長とともにイベントで子供たちを楽しませたり、自分の姿をイラストにしてみたりアニメにしてみたり、そのような大きな夢を見ていたのです。そして仕事に励むようになった頃には村に住んでいた時の名前を捨てて、名前を「キチィ」と名乗っていたのでした。社長はキチィの眠るその墓を見ながら、その場所をくれた村の女の人とキチィの話を少しの時間だけしたのでした。社長にも彼女らの一族は顔が猫に似ているように見えました。皆が同じような顔つきをしていたから、というわけではないのですが、その村の女の人に、

「キチィという名前をついで私と一緒に会社で働かないか」

と話しかけたのです。この山深い丘陵と畑しかないような村から一歩も出たことのないその女の人は何と答えてよいものかとても困り果てたのです。五反田シルクセンター社のある東京都区の五反田という土地は名前を聞いたことすらないのです。ですが、その夢を見て村を出ていき今は遺骨となってしまったその人が見た景色を見てみたくて社長について行くことに決めました。

ナンリオ社長とキチィが出会った当時の落合村(地理院地図を着色加工)
2人が出会った河原はニュータウン開発により消滅し崖はコンクリートになりその上を鉄道が通るようになった

「落合」とは?

落合 (多摩市) – Wikipedia

かつて南多摩郡多摩村の純農村、大字落合の谷戸部にあった、小字青木葉集落の両翼に位置していた広大な丘陵地の雑木林が、多摩ニュータウンの第9・10住区として造成、開発され新生落合が誕生した。

落合 (多摩市) - Wikipedia

「乞田川」とは?

乞田川 – Wikipedia

乞田川(こったがわ)は、東京都多摩市を流れる一級河川。多摩川水系の支流である。

本来は中沢川との合流地点より下流を乞田川と呼び、それより上流を唐木田川と呼んだ。唐木田川と中沢川が合流する地点が「落合」(旧大字落合)の由来である。

乞田川 - Wikipedia

遺跡庭園

 キチィちゃんは今や押しも押されもせぬ大スターですが、第2代キチィはナンリオ社長と出会う1962年まで落合村の片隅で貧しい木や葦でできた簡素な家に住んでいました。電気やガスを使うお金もなく家の中で火をくべて生活していたといいます。

 ピェールランドの近くに第2代キチィが住んでいた、当時の簡単な材料で作られた家を再現した遺跡庭園「落合の村」があり、あの貧しい頃を忘れないためにナンリオ社の社員が毎日家の中で火をくべています。そのような暗い印象のある施設のためかキチィやピェールランドの知名度に合わず、この昔を記念する施設を訪れる者は少ないのです。

 落合村がニュータウン落合地区に生まれ変わるまで丘陵と畑の広がる自然豊かな田舎でした。第2代キチィは丘陵の上にある少し不便な場所の狭い畑で作物を作りながら細々と生活していました。ナスやオクラやキュウリなど小さめの作物を作って時々それらを換金してわずかな収入を得ていたのです。その畑のあった場所は遺跡庭園やピェールランドがあるあの一帯で、随分と景色が変わったものです。今ここの場所が昔畑だったということを想像する人はほとんどいないでしょう。

 その生活の中で食べるものといえば、作物の一部や自然に生えているゼンマイ、ワラビなどをとるなどしていました。時々丘陵の下を流れている乞田川で魚をとって食べたりもしていました。この村には娯楽になるようなものは何もなく、ただただ同じような日々が繰り返し流れていくのでした。 楽しみといえばせいぜい毎年1月に行われるサイノカミというお祭りぐらいのものです。今落合には娯楽施設や食事をとることをできるお店が溢れるほどあります。とてもよい時代になったものです。

 第2代キチィが住んでいた家は村の中でも特に貧しい建物で、壁のない屋根だけのような構造をしており、柱を組んで周りに葦の茎を葺いた簡単なものでした。それでも煮炊きして寝るにはさほど不自由はしませんでした。こうした生活しか知らなかったのでこれが当たり前だと思っていたのですが、ナンリオ社長と知り合って東京の五反田というところに出てきてそこに住むようになって、その生活様式の違いや街というところが落合村と全く異なる存在であることに最初は随分と困惑したものでした。住むことになった木造モルタル造りで四畳半ほどの広さのアパートは最初随分と居心地が悪かったものです。しかしやがて街にもなれ五反田シルクセンター社(のちのナンリオ社)の仕事にも慣れ、そうした生活が2年半ほど続いたのです。

第2代キチィが住んでいた家を現地で再現したもの

七生山

 落合村から北へ 4km ほど歩いたところに昔から七生山(ななおやま)と呼ばれる山があります。多摩丘陵中央部にその山はあり、付近は里山が連なる自然が豊かな一帯です。

 今現在七生山の斜面にとても大きな日本有数の七生山動物公園があり、1958年の開園以来大勢の人に動物を見せて楽しませてきました。敷地内は丘陵地に作られたため全体的に急な坂ばかりで、見てまわるにはかなり体力が必要となります。足腰の悪い人や体力の少ない人のために公園内を無料で移動できるバスが運行されているくらいです。

 ここは今では楽しい動物公園ですが、昔は全く違う雰囲気の場所でした。古くから多摩地域に住む動物のような人たちは一族皆体が弱く寿命が短かったのです。その動物のような人たちのためにここにはかつて療養所がありました。健康が優れなくなるとここに入所して再び体調が良くなるのを待つ生活を送るのです。動物のような人たちはその見た目だけの理由であまり村の人たちから良く思われておらず、村の人たちは陰でこの療養所のことを口悪く「隔離場」と呼んでいました。

 初代キチィの子供の頃にもうこの療養所はなくなっていたので彼女らは七生山のことを昔話として存在を知っているだけです。この昔話にでてくる療養所は長期入院患者向けの医療施設で、内科や外科、歯科や精神科などを併設していました。動物のような人たちはこの療養所では職員や近所の人々から「どうぶつさん」と愛称で呼ばれ、療養所の社会の中では割と楽しく過ごしていたようです。

 昔ここに、兎のような人が入所していました。名前は「イメ」といい、下の村では口汚い言葉で「うっぱ」と嫌な言われ方をされていました。しかしここではそのような言い方をする人は誰もいませんでした。イメは少し体力をつけるための作業療法として敷地の中に小さな池を作ったり山を作ったりしていました。それほど立派なものが作れるわけではないのですが、斜面の多いこの場所で一通り作業をやり終えた後はとても充実した気分になれたものです。その池や山は今でも残っていて公園の一部として解放されており、人々がのんびりと楽しそうにしている姿を見ることができます。

 イメはここでの暮らしがそれほど嫌いだったわけではないのですが、こことは違うこの村とは違う生活を望んでいたのも事実です。窓の外に見える深い森を見るたびにこの森の先にあるどこか行きたいと夢想していたものです。イメは雪の降ったある日、幻想的な雪の降る景色の先にあるどこかへ行ってみたいと強く思い、無我夢中で雪の積もる丘陵地帯の森の中をどこまでもどこまでも走り抜けて行きました。翌日幸せそうな顔をして眠る、そしてもうけっして目が覚めることのないイメの姿が深い森の中で見つかったのです。イメはきっと幸せだったのでしょう。

 この療養所は丘陵地にあるため、冬は冷たい風がとても厳しく吹き付けてきます。そうなると散歩もままなりません。ただひたすら病室にこもって健康の回復を待つだけなのです。また落合村からここに来るまで丘陵地の深い寂しい道を歩いてこなければいけません。冬場に入所や帰宅となると冷たい風が吹き付ける中、寂しい道を凍えながらずっと歩かなければならなかったのです。このような寂しい田舎道を歩かなければならなかったのですが、2000年1月から旧落合村とかつて療養所のあった七生山動物公園との間を「ピェールリゾートライン」というモノレールが走り始め、乗っているとあっという間に到着してしまいます。そして動物公園の隅に療養所があったことを記念する碑が立っており、そこには

「どうぶつさん おもいでを ありがとう」

とだけ書かれているのです。

現在動物公園となっている療養所跡地
イメたちが作った七生山にある人工池
寒い中歩いた落合村と療養所をつなぐ道の現在の姿
ピェールランドと七生山動物公園そして大きな駅を結ぶ「ピェールリゾートライン」
療養所跡地の残る「どうぶつさん」の碑

ニュータウンの開発

開発中の土地

 昔々その昔からここに落合という丘陵と畑しかないような田舎の村がありました。その中の低くて平らな土地に乞田川が流れ、その近くに魚のような人が住んでいました。その人は畑を耕したり時々川魚をとって食べるような生活をしていました。その人の名前は「ハンギ」といい、その魚に少しばかりに似ているその見た目から村の人たちからは「さっぱ」とよばれ、あまりよく思われていませんでした。

 日本が戦争を行い、そして負けた後に高度経済成長期が訪れました。経済的に豊かになると同時に東京都心の土地価格が上がり、人々は少し離れた比較的地価の安い郊外に家を求めました。都心から郊外に人口が移るいわゆる「ドーナツ化現象」が起こったのです。民間会社が開発した新しい町は無秩序に広がってゆき、その半分以上が違法な宅地造成という有様でした。秩序のある都市開発を目指してこの地にニュータウン計画が決まりました。

 1966年にニュータウン事業を行うことが正式に決まりました。辺りには畑にある作物と丘陵地に立つ木々しか見えないような田舎であるこの土地の上に調査のためのヘリコプターが飛び始めました。ハンギの耕す畑の上にも同じようにヘリコプターが飛び始めました。その騒音の下でハンギは黙々と農作業を続けるのですが、ここにある景色が数年後には消えてしまうということは全く想像できなかったのです。 ハンギはそのヘリコプターを見上げて
「一度はああいうものに乗ってみたい」
と思うのですが、そのヘリコプターが何をしているのかまではあまりよく分かっていなかったのです。

 1969年に起工式が行われニュータウンの造成工事が始まりました。一面緑に覆われた景色が次々と土の色をした景色に変わってきました。土地は形を変え、ハンギたちはこの土地を去る時期が迫ってきました。農業で生活をしていた人に対して店舗経営など転職をするための職業訓練などが行われましたが、ハンギたちはこの流れに乗らず密かに別の土地へと消えて行きました。ハンギの姿を川崎の工場で見たという人もいますが、本当なのか定かではありません。

 ニュータウンへと姿を変えつつある旧落合村に1974年、ようやく鉄道が開通しました。その2年後にはニュータウンの旧落合村があった地区に入居が始まりました。もう誰もこの土地にハンギが住んでいたことを憶えてはいないのです。

ニュータウン開発

ピェールランド建設

聖なる墓地施設

 ピェールランドに遊びに来る人々にとっては「キチィ・ホワイト」と言えばただ1人だけですが実は数年ごとに代替わりが行われています。猫のような人たちは元々体が弱く寿命が短いため長い年月にわたってキチィの仕事をすることは難しいのです。 1960年8月にキチィを名乗った初代から、現在は第26代になります。

 1985年、第13代キチィの時代にナンリオ社長は初代キチィを記念する大掛かりな墓地施設の建設を決めました。場所はかつて初代キチィが眠る墓があった所を中心とした、第2代キチィがそこに住み畑を耕していた土地の辺りです。畑のあった土地はすでに地主からニュータウンを開発した公団に引き渡され新しく造成されたため、以前とは全く形の異なる姿をしていました。その土地2.1万平方メートルを購入することに決めたのです。

 しかし大きな問題がありました。ニュータウンとしての決まり事で、そこに大掛かりな墓地施設を造ることはできませんでした。調べたところこの地域では学習施設なら造ることが可能だったため、交渉した結果として墓地施設ではなく学習施設としてのテーマパークという形で建物を造ることにしました。 最初は仮称として「サン墳墓学習施設」という名前でしたが、のちにテーマパークらしい名前にということで初代キチィの墓石となった岩にちなみ、岩を意味する「ピェール」という言葉を入れた「ナンリオピェールランド」という名称に決まりました。ナンリオ社長は高らかに、
「私はこの初代キチィの墓石となった岩の上に私達のテーマパークを建てる。」
と宣言しました。

 「ナンリオピェールランド」は書類上学習施設という扱いになったとしてもナンリオ社としては聖なる墓地施設ということには変わりありません。まず元々畑の隅に初代キチィの墓地があった場所の直下、建物の地下1階の中央に初代キチィの墓を、それも立派な地下墓地を造ることを決めました。そして初代キチィの墓の周りには第2代から第13代まで12基のキチィが眠る墓を、初代を囲むように放射状に並べることにしました。

 次にその墓の真上に「知恵の木」と名付けた大きな木を1本たてることにしました。もちろんそれは本物の木ではなく直径8メートルの巨大な設備で、中に階段があり木の中を歩いてまわれるようになっていました。この木は動物のような人たちが暮らしていた昔の落合村に伝わる祭儀である 「サイノカミ」をイメージしたものです。キチィちゃんたちの故郷に伝わる祭儀を重んじることが墓地施設としてふさわしいとナンリオ社長は考えたのです。その木のまわりにはパレードができる大きな広場を造ることにしました。木のまわりを回りながら動物のような人たちがパレードを行い、それを大勢の人が見守るのです。

 第14代キチィの時代に具体的な建設計画が進みました。建設場所の土地の半分は元々丘陵の斜面だった場所で正面と裏で高低差が10メートルほどあり難工事が予想されました。 また建物の中央に大きな広場とその地下に墓地を造るため建物の強度の確保がとても難しいなど設計上の困難が多くありました。 それらを克服しながら1988年11月16日に起工式が行われ建設工事が始まりました。困難の上に困難を重ね施設は完成に向かいました。

 そして初代キチィが亡くなり、ナンリオ社長と第2代キチィが出会ってから28年後の1990年12月7日、第15代キチィの時代に日本初の墳墓型テーマパークとして開園したのです。そして世界的にみても墳墓型テーマパークとしては最大級のものとなります。 ただし、地下の墓地は一般客は立ち入ることができず、またナンリオ社の中でもナンリオ社長とピェール館長、その召使いと地下の墓地を管理する人たちしか立ち入ることが許されていません。そのためお客さんの中には地下に墓地があることを知らない人も多く、この建物に地下1階があること自体あまり知られていません。

 今現在もピェールランドが墳墓型テーマパークということには違いありません。今進めている計画として、建物の中に数箇所ある劇場の下に新たに一般向けのロッカー式納骨堂を造ろうというものがあります。それは長年ピェールランドに遊びに来てくれたお客さんが亡くなった後もピェールランドと共にいてくれるような素敵な空間になるはずです。その劇場はきっと生者と死者が交わり時代を旅する夢のような空間になるのです。

建設当時ピェールランド周辺(地理院地図)

サイノ・パレード

サイノカミ

 落合村がまだニュータウンの開発が始まる前の山と畑しかない田舎だった頃、この村にはサイノカミという宗教行事が毎年1月に行われていました。

 村にある広場で雑木やワラ、松や竹そして正月飾りなどを集めて高く高く積み上げそれは大きな木のようでした。その塊に火をつけ燃やすことでこれからの1年間病気をせずに過ごせるようにと神に祈ったのでした。

 村の人々は手にはハートのような形をした団子を持ち、その燃える木のようなものの周りをずっとずっとぐるぐると回って一晩中歩いたり踊ったりしていました。また同時に獅子舞や和太鼓などの伝統芸能も披露したのでした。

 この古い伝統を違う形で残すために、ピェールランドの1階広場の中央、そう初代キチィちゃんの墓の真上に木の施設を作ったのです。この木の周りを客やスタッフがハートの形をしたもの、さすがに今の時代の感覚ではテーマパークで団子を持ち歩くわけにはいかないので、団子ではないけれどもハートの形をした光る小道具を開発して、それを持ってくるくると木の周りを歩いたり踊ったり床に座ってずっと長い時間その木の前で座ったりと、サイノカミという宗教行事をテーマパークの中で行うにふさわしい形式に変えて1年中ピェールランドの中で毎日その祭りの記念を行うのでした。また、定期的に昔の伝統芸能の位置付けに相当するミュージカル「サイノカミ」も定期的に上演しています。内容は商業を意識したミュージカルなのでさすがに内容は全く違いますが、木の周りで動物のような人たちが踊るさまはどこかしら伝統芸能に通じるのかもしれません。

 しかし、サイノカミはこの地にあった古いお祭りなので、客やスタッフに実際の「サイノカミ」を知る者はほとんどいないといいます。

実際の宗教行事ではこのように火を付ける
ハートのような形をした団子を持ち一晩中周囲を歩いたり踊る
ミュージカル「サイノカミ」

歴代キチィ

 初代キチィは1960年8月にナンリオ社長(当時は五反田シルクセンター社長)と一緒に娯楽の興行やかわいいキャラクターをあしらった布製品を提供する会社を創設したのですが、その2年後に生まれつき体が弱かったため亡くなってしまいました。その亡骸を埋葬するためにナンリオ社長が落合村を訪れた時にのちの第2代キチィと出会いました。彼女はナンリオ社長とともに東京の五反田という街に出て、初代キチィの儚くも叶わなかった夢を受け継ぐという意思を示すため、生まれた時の名を捨てて「キチィ2世」を名乗りました。それから後継者は全て新しい名前をキチィから始めるという習慣が生まれました。

 仕事が軌道に乗り始めた1974年11月にナンリオ社長は、それまで芸名のような位置づけだったキチィの名を表舞台でも使うことを決めました。キチィを客に親しんでもらえる名前として公に使い始めたこの1974年11月1日を「キチィちゃんの誕生日」と定めました。この日を記念して第8代キチィ以降は名字として「ホワイト」と名乗ることにしました。第10代までは「キチィ・ホワイト」を名乗っていましたが、それ以降は2つの名前の間にいくつかの名前を挟むような習慣が生まれていきました。この間に挟む名前は縁起担ぎのような意味も含まれており、近年名前が長くなる傾向にあります。しかし表舞台に立つ時の名前はあくまでも「キチィ・ホワイト」であり、これらの名前が用いられるのはナンリオ社で働く人たち、特に地下の墓地を管理する人たちの間だけなのです。

 第15代の時代に入るタイミングに合わせて、1990年12月に初代キチィが眠る墓のある地の上に大型施設墳墓型テーマパーク「ピェールランド」を開設することができました。ナンリオ社長がいつか初代キチィを記念する墓地施設を作りたいと願っていたことが叶ったのでした。初代キチィと一緒に会社を作ってから、気がつけばもう30年が過ぎていました。

 代々続くキチィたちですが、猫のような人たち一族は皆体が弱く寿命が短いため、その活動中に死が訪れるまで働き続けるという事実上の終身制がとられていました。活動期間はおおよそ2年ほどで、死によって仕事に穴を開けるわけにはいかないため襲名就任と同時に後継者候補数名を育て自分の死後すぐ次の者に仕事を継げるようにしています。その人たちは「後継者団」と呼ばれ、現役キチィの死後選挙によって正式な後継者を選びます。それは厳格な選挙で、歴代キチィの墓のある部屋にこもり鍵をかけ誰も入れないようにして後継者団のメンバーが自分以外の1人に投票を行う秘密選挙です。このような制度の存在もあり幸いなことに現在までキチィが存在しなかった期間は初代から2代目の間にある3ヶ月間のみです。

 事実上の終身制で活動してきた「キチィ・ホワイト」ですが、近年例外が生まれました。第25代 (2014.5-2018.10) が体力の著しい低下を理由に生前に引退をしたのです。幸い第25代は寿命が長く、引退後も弱々しいながらも生き続け、帰天する2022年12月までピェールランドの普段はけっして従業員も客も立ち入ることのない、ナンリオ社長とピェールランド館長とその召使いしか立ち入ることが許されていないドーム状の天井を持つ部屋で「名誉キチィ」として静かな時を過ごしました。今後は生前に引退をするケースが増えるかもしれません。

歴代キチィ名称一覧

20世紀(昭和)

❥初代 1960.8-1962.8
キチィ

❥第2代 1962.11-1965.6
キチィ2世

❥第3代 1965.6-1966.4
キチィ3世

❥第4代 1966.4-1969.1
キチィ・フィデス

❥第5代 1969.1-1971.6
キチィ・テレーズ

❥第6代 1971.6-1974.2
キチィ・スビルー

❥第7代 1974.2-1974.11
キチィ4世

❥第8代 1974.11-1975.3
キチィ・ホワイト

❥第9代 1975.3-1978.10
キチィ・ホワイト2世

❥第10代 1978.10-1980.1
キチィ・ホワイト3世

❥第11代 1980.1-1982.8
キチィ・アグネス・ホワイト

❥第12代 1982.8-1985.2
キチィ・マルグリット・ホワイト

❥第13代 1985.2-1987.10
キチィ・アルベリック・アンジェラ・ホワイト

❥第14代 1987.10-1990.12
キチィ・アンナ・セシリア・ホワイト

20世紀(平成)

❥第15代 1990.12-1992.8
キチィ・ヘレナ・ヤドヴィガ・ホワイト

❥第16代 1992.8-1994.11
キチィ・アポロニア・ホワイト

❥第17代 1994.11-1996.7
キチィ・リヘザ・エリザベス・フィデス・ホワイト

❥第18代 1996.7-1999.5
キチィ・ブリギッド・エヴフロシニヤ・ホワイト

❥第19代 1999.5-2000.12
キチィ・フィーナ・キャサリン・フィロメナ・ホワイト

❥第20代 2000.12-2003.6
キチィ・ピロシュカ・ジャシンタ・クリスティーナ・ホワイト

21世紀(平成)

❥第21代 2003.6-2006.10
キチィ・ディンプナ・ジューリア・ジャンヌ・マーガレット・ヨアネ・ホワイト

❥第22代 2006.10-2009.3
キチィ・ビルギッタ・キリアキ・ニノ・ヘレナ・マティルデ・ポーラ・ホワイト

❥第23代 2009.3-2011.3
キチィ・エルジェーベト・スコラスティカ・リュドミラ・メアリー・メヒティルト・ヨアネ・ポーラ・ホワイト

❥第24代 2011.3-2014.5
キチィ・フィデス・ディンプナ・ファウスティナ・モニカ・エウフラジア・ヨアネ・ポーラ・ホワイト

❥第25代 2014.5-2018.10 (2022.12帰天)
キチィ・ベルナデッタ・アリア・ブリギッド・ヤドヴィガ・ロザリア・ジェンマ・アーデルハイト・ベネディクタ・ホワイト

❥第26代 2018.10-現在
キチィ・マーガレット・リタ・ウルスラ・ルトガルディス・ゲルトルード・セシリア・ローザ・ロタリンスカ・キンガ・ベガ・フランシスカ・ホワイト

このドアの向こうの奥に第25代名誉キチィが住んでいたドーム状の天井を持つ部屋がある
ドーム状の天井を持つ部屋

レストラン

桜舞う乞田川

 今は第2代キチィと呼ばれている女の人が暮らしていた落合村には丘陵になっているところと川の堆積によってできた低くて平らになっているところがあります。その低くて平らなところに村の人々が「聖なる河」と呼んでいる乞田川という川が流れています。その辺りに顔が少し蛙に似た一族がいました。猫のような人たちは「ねっぱ」と呼ばれていましたが、蛙のような人たちは「かっぱ」と呼ばれ猫のような人たちと同様に村の人たちとはあまり親しい付き合いをしていませんでした。

 蛙のような人のなかに「カピ」という名前の者がいました。カピは一族がそうであるように川の周囲に住むことを好み、 魚などを獲って食べたり河原に胡瓜を植えてその実を食べるような生活をしていました。そしてカピは一族の人たちと同じように頭の上に爪のような質感を持った皿のような形をした体の部分があったのです。それは他の人間にはない一族特有の特徴といえます。それについてカピはとても誇りのようなものを感じていました。「これぞ我が一族だ」という信念を持っていたのでした。

 ピェールランドが完成した時には、近辺のニュータウン開発も一通り行われ、もう乞田川は昔の姿ではなく両岸をコンクリートに固められた、都市によく見られる人工的な姿になっていました。もうそこには蛙のような人たちが住むことのできる場所は存在しませんでした。彼らが非常に苦しい生活をしていることを知ったナンリオ社長はピェールランドの4階にあるレストランで皆に調理などの仕事をしてもらおうという素晴らしい考えをもったのです。生きるすべを失いつつある蛙のような人たちはの提案を喜んで受け入れました。そして調理などの仕事を一生懸命覚えて今もピェールランドのレストランの調理場で働いています。

 客の前にはほとんど姿を見せることのないこの蛙のような人たちは毎日懸命に働きました。その中にカピもいたのです。そしてカピは自分の頭から皿のような形をした体の部分を取り出してテーブルの上に置き、
「お客さんみんなこの皿で美味く食べてくれるといいな」
そう皆と話しあいました。そしてカピをはじめ蛙のような人たちに応えるように ナンリオ社長は皆の雇用を絶対に守ってみせると強く心に決めています。

蛙のような人たちが昔住んでいた付近で当時の面影は消えた現在の乞田川
コンクリートに固められ流れを直線的に作り変えられた現在の乞田川
蛙のような人たちが働くピェールランドのレストラン
レストランには毎日大勢の人が訪れる

公園の木

(ここの物語はどこかで聞いた実話を元に創作して書いています。)

 ピェールランドから少しばかり歩いたところにある、永山第4公園の広場中央にある小高い丘の上に1本の大きなケヤキが立っています。その木はとても威厳に満ちていて、まるでその公園の支配者のようです。しかし、このケヤキは最初からここに植えられていたわけではありません。この木が生まれた土地、一時的に置かれていた土地、そしてここは3番目のケヤキが生きることになった土地なのです。

 時は1964年のことです。ナモという名前の犬のような人が住んでいたいました。ナモは以前はもう少し人が多くにぎやかな村に住んでいましたが、色々とあって居づらくなったためこの閑散とした村に引っ越してきました。しかしこの閉鎖的な村でナモはその見た目が少し犬に似ていたことから「いっぱ」という意地悪な呼ばれ方をされ、村八分とまではいかないまでも、あまりよい扱いを受けていませんでした。 この年は東京オリンピックが開かれたり東海道新幹線が開業したり東名高速道路が開通したり様々な新しい出来事があった年ですが、山深いこの村ではまだこういうことがあったのです。

 ナモは落合山というさほど高くない山の中に住んでいました。普段はだいたい山の中にいるのですが、時々用事があると山を下りて集落に行くこともありますが、そういうことはとても珍しいことなのです。あまり村の人とは積極的に関わらない、また向こうも積極的に関わってこないという関係が長く続いたのです。ナモはその犬のような見た目から昔から嫌な思いを沢山してきたのでした。そのため人に対する話し方もどことなく誰にでも目上の人と話すような少し引いた喋り方をする癖がついており、それがいかにもいつも嫌な思いをしてきたのだと思わせるのでした。

  ある時珍しくナモは集落で年に何度か開かれる宴会の席に呼ばれました。あまり多くの人が一度に集まって食べたり話をしたりという場には馴染みがなくあまり行きたいとは思っていなかったのですが、村の中で生きていくためには少し関わっておいた方が良いだろうと思い宴会の席に出ることにしました。ある日の夕方、宴会が始まる少し前の時間になったのでナモは山を下りて宴会の開かれる家に来ました。そこはとても大きなお屋敷で庭には蔵や大きなケヤキの木がありました。恐る恐る敷地に入っていくとその家の人がいたので挨拶をしました。そして表玄関から家の中に入ろうとした時その家の人は言ったのです。

「 動物のような人は家の裏の戸口から入りなさい。」
「どうしてですか。」
「理由はないけれども昔からそういうしきたりなんだよ。」

 そういった会話が交わされたあと、ナモは争いを避けそっと裏の戸口から家の中に入ったのです。以前住んだいた村では、さすがに裏口から入れというようなことを言われたことはなかったのでとても驚いたのですが、昔からのしきたりと言われてしまえば逆らうのはとても難しいことなのです。家の中に入ったあと、部屋に入り適当な席に座ろうとした時に再び家の人に話しかけられました。

「動物のような人は座ってないで一人一人にお酒を注いでまわりなさい。」
「どうしてですか。」
「理由はないけれども昔からそういうしきたりなんだよ。」

 先程と似たような会話が交わされたあとナモはひどく混乱したのでした。なぜ見た目が少し犬に似ているからといってこのような扱いを受けなければならないのでしょうか。ナモは泣きながら誰にも挨拶をせずに走って落合山へ帰っていったのです。家に帰る途中の山道から宴会のあった家が見えました。その家の庭に立っていたとても立派なケヤキの木が目に飛び込んできました。このケヤキの木はきっと長い年月のあいだに人々の喜びや悲しみや色々な出来事を黙って見続けてきたんだろうな、と思いました。きっとこの村で自分を理解してくれるのはこのケヤキの木だけだろう、そう思いながらじっと木を見つめて立っていたら、下の方から村の人が数人追いかけてきてナモが置いてきた草履や荷物そして宴会に出された食べ物を包んだものとお酒を少し入れた器をナモに渡しました。村の人たちはナモに言ったのです。

「みんななかよく、な。」

 それを聞いたナモはいつかはそういう日が来るかもしれない、と思うのでした。

 この2年後の1966年にこの丘陵と畑しかないような山深い田舎の村に大きな出来事がありました。ここの土地を地形が変わるほどの大幅な改良工事を行い区画整備をして大規模な住宅地を造成するという、ニュータウン計画が持ち上がったのでした。 それから数年間、まず空にヘリコプターが飛ぶようになり調査が始まりました。そして住宅地や幅の大きな道路を作るため古い住宅に住む人々の移転が始まりました。ナモの住んでいる落合山も新しい住宅が建設されるというので立ち退かなければならなくなりました。ナモの唯一の友達であったケヤキの木は工事の都合で切り倒されることが決まりました。ナモはとても憤慨し、村の人が今まで見たことのないような怒りに満ちた姿を見せました。実力行使をして工事用の車両が通る道路に岩や木を転がして通れなくしたのです。それを毎日毎日行ったので役所の人がすっかり困り果て、忙しい最中時間に無理をしてナモの家に深夜訪れて話をしました。

「その木を切り倒すのはやめにして、とりあえず役所で引き取り一時的にどこかに植えておきます。そのあと区画整備が終わったのち正式にどこかに植えたいと思います。」

 このような話にナモはすっかり安心したのでした。その約束は守られ、今はニュータウンの中にある永山第4公園の敷地中央に威厳に満ちた姿を見せています。今でも公園に行くとその木の下で親子が一緒に遊んでいるような光景を見ることができます。

 そして1990年のことです。その頃ナモにはそれぞれ片親の違う子供が17人いて、またその中のひとりの子もナモを名乗っていました。その子は歌や踊りが大好きな子でした。この年に旧落合村にナンリオ社が運営する「ピェールランド」というテーマパークが完成しました。旧知の仲でその運営に携わっている猫のような人である第14代キチィから犬のような人であるナモの子のナモに、
「ここで一緒に歌ったり踊ったりしないかな?」
と誘われたので、テーマパークの仕事に参加することを決めたのです。

開発された現在の落合山
落合山には今でもこのような山道が残っている
永山第4公園の広場中央にある大きなケヤキ

疫病

 第26代キチィの時代に歴史に残る疫病が世界中に流行しました。最初の頃は遠い外国の小さな地方で発生したウイルス性肺炎という認識ですぐに収束すると思われていましたが、その疫病は時間と共に国境を越え世界的な流行となりました。日本でも2020年1月半ばに国内で同じ種類の疫病が発見され、そののち感染が人々の間に急速に拡大していきました。ピェールランドはこの強力な感染力を持った疫病の集団感染源に自らならないようにとその年の2月22日から完全な臨時休館を決めました。これは「古い都」という名を持つ川の向こうにあるという鼠のような人たちが支配するテーマパークより早い決断として歴史に刻まれました。

 ピェールランドは館内の全ての照明が落ち、大きな建物は暗闇に包まれていました。館内は客が1人もおらず、時々作業をする人たちが行き来するだけでした。暗く沈んだ知恵の木の周りには無数の光る青白い玉のようなものが反時計回りに進みながら浮遊し、止まっているはずのスピーカーからは音楽が聞こえてきました。このような霊的な光景は以前から営業終了後よく見られもので、このことは一般客には伏せていますがここで働く人々の間では当たり前の事実となっています。完全な休館を決めてから日中も暗闇に包まれている建物の中では、一日中光る青白い玉のようなものがずっと知恵の木の周りを回り続けていました。人によってはこれは歴代キチィたちの霊魂ではないかと考える人もいました。

 最初の頃は数週間の臨時休館ですむと人々は考えていましたが、強力な感染力を持ったこの疫病は想像以上に長期間人々を苦しめ続きました。人々がいなくなったのはピェールランドの中だけではありません。周囲の旧落合村にある商業地区にも人の姿が消えていきました。近くにあるゲームセンターやイタリアンレストラン、そして居酒屋やネットカフェに至るまで人の姿は消えました。街はまるで無人の映画セットのようです。

 その年の3月27日に第26代キチィは疫病からくる困難が早く過ぎ去ることを願い、ピェールランドの中で最も町がよく見える塔の一番高い場所に立ち 「落合と世界へ」という意味をもって人々町々に対して祝福を行いました。

「落合と世界へ
嵐は私たちの弱さをあらわにしました。
そして私たちが一つの家族であるということを再び明らかにしました。


病んだ世界で常に健やかに生きる方法のみを考えていた私たちの目を覚ましてくれました。
私たちの判断の時です。


何が重要で何が必要でないものか見分ける時です。

私たちの生活はいかに忘れがちな人々によって成り立っているのか嵐によって示されました。
社会の隅でひっそりと行われる誰にも知られることのない奉仕こそが勝利に導く大切な存在です。


すべての人たちよ、一つになりましょう。
暗くなってゆく灯火を消さないようにしましょう。
恐れてはいけないと呼びかけましょう。」

 人々の消えた誰もいない町の中に第26代キチィの祝福が静かに広がっていきました。

人々町々に対して祝福する第26代キチィ

聖なる河

 聖なる河である乞田川と我々の聖なる地である落合ですぐに起こることを猫のような人が私に伝え、それを書き綴った。猫のような人は蛇のようにくねった川を真っ直ぐな流れに変える方である。猫のような人が輝きながら雲に乗っておられる。

「聖なる河
 聖なる河
 聖なる河
 万民の母なる河
 天のいと高きところと地の低きところをつなぐ河」

 わたしが聖なる河である乞田川を眺めていると、ほら貝を吹くような響く声がした。その声は私に語りかけていた。
「ここに上がってこの地を見よ。今まで起きたこと、そしてこれから起こることをあなたにすべて見せよう。」

 辺りを見回すと26人の猫のような人々が白く輝きながら円を描くように立っていた。この者たちの前に4つの生き物が立っていた。

 第1の生き物は聖なる河に北からやって来た。この生き物は北の地の不幸を嘆き聖なる河にたどり着いたが、実際に不幸は地の上ではなくこの生き物の上にあった。この生き物は他の生き物を食いちぎろうとしたがその力はすでに無かった。この生き物が聖なる河の畔においてもなお不幸であることを許された。

 第2の生き物は聖なる河に南からやって来た。この生き物は苦い水をことごとく嫌い甘い水を求めたが、実際に口にするのも口から出てくるものも苦い水であり、その生き物の周りにいる生き物からも口から苦い水が出てきた。しかし、そのうちどの生き物もそれが甘い水と信じていた。この生き物たちが苦い水しか与えられないことをしばらくの間は許された。

 第3の生き物は聖なる河に西からやって来た。この貧しい者は敗北の上に敗北をさらに重ねようとしていた。この者には大いなる剣が与えられていたが、この者の中にはもうすでに剣が炎のように燃えるような余地は残されていなかった。この者はのちに太陽の力を恐れるようになる。

 第4の生き物は聖なる河に東からやって来た。その者の名前は「死」といい、 黄泉に向かう食べ物を授かっていた。それらを天秤ではかり命の価値を決めていた。その食べ物は野獣から人々を滅ぼす権限を与えられていた。 それを食べた人々は祭壇の上に捧げられ 命が尽きるまで悪魔の儀式に付き合わされた。

 また私は猫のような人たちの前に4人の天使が立っているのを見た。4人の天使は聖なる地を目指す人々に悪魔の力が及ばないよう常に監視をしているのであった。この4人の天使が4つの生物に向かって叫んだ。

「我々があなた達の額に刻印を押すまで何も失ってはいけない。血の一滴ですらあなたたちの思うようにはならない。救いは全て猫のような人からもたらされる。」

 さて4人の天使が それぞれラッパを吹き鳴らそうとしていた。

 第1の天使がラッパを吹くと炎が地に落ち人々が不幸だと叫んでいた土地を全て焼き尽くしてしまった。

 第2の天使がラッパを吹くと海の半分もが血に変わり古い文明を持った者たちの半分が死んだ。

 第3の天使がラッパを吹くと一羽の鳩が空高く舞い飛び、その者たちの血と不幸を嘆き悲しんだ。

 第4の天使がラッパを吹くとイナゴの大群が押し寄せ人々の食べ物を全て食べ尽くしてしまった。そして人々はその食べ物によって死を望んだとしても死の方から人々を避けるようになった。

 そのうちの天使の一人が言った。
「これらのことは、腹には苦いが、頭には蜜のように甘い。」

 猫のような人が答えた。
「この者達は大きな苦難をくぐり抜けてきた者で、衣を血に染めてきたが、今まさに我々が洗っているのだ。」

 この書物の言葉は全てあの「猫のような人」からきている。この言葉に何か付け加える者には災いが与えられる。聖なる河、聖なる地から「猫のような人」よ来てください。聖なる河の恵みが全ての人々の上にあるように。

ダニエル補遺書

 これは聖なる地「落合」と歴代キチィを傍らで見ていたダニエルの落合今昔物語補遺書。

 私 ダニエルは 26人の猫のような人について考えていた。いと高き者、世界中をおさめられるであろう猫のような人々についてだ。

 私は運良く長い生命に恵まれたのでその26人を見ることができた。多くを語る必要はない。この26人に続くものは永遠に現れ、乞田川のほとりを支配していくだろう。また東西南北 からこの地に訪れる血にまみれた人たちのことも決して見捨てないであろう。

 たとえ 悪が勝つように見えたとしても、支配力のすべてはこのいと高き方、猫のような人たちに与えられ、ピエールランドはとこしえに続き、全ての支配者はこの猫のような人に従う。古い川の先に住む「鼠のような人たち」もその例外ではない。猫のような人たちは代々に 称えられ崇められる。

 猫のような人たちに栄光と賛美を。

 猫のような人たちよ獅子のように強くあれ。

 このダニエルの命が尽きてもキチィは生き続けよ。

 猫のような人たちを永遠にほめたたえよ。

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